予知夢



 例えば。
 本日提出の芸術鑑賞会感想プリントを忘れるとか。
 しっかりしているはずの委員長(名前は忘れた。確かマ行)が、授業中寝ぼけて、先生をお母さんと呼ぶとか。
 調理実習で油がはねて、お調子者の男子が軽い火傷を負うとか。
 そんな些細な、日常の出来事。
 そんな些末な、夢中の出来事。
 ……さて、ここで質問です。
 偶然は、何回続くと必然ですか?




「二度あることは三度ある。ってことで四回以上かな」
 エナメルを塗った細長い指が、カリカリの固く揚がったポテトを攫って行く。
 んーやっぱりポテトは揚げたてカリカリじゃなきゃねーなどと満足そうに呟いて、彼女はぺろりと指に付いた油と塩を舐めとった。やけに扇情的に見えるのはまあ、気のせいであって欲しい。僕は少しだけ彼女から目線を逸らす。深紅のエナメルは毒々しいくせに妖艶で何となく腹が立った。
 ……折角とっておいたポテトを奪われたからでは決してない。念のため。
 さざ波のようなざわめきが狭い店内に満ちている。土曜の午後、大手チェーンのファーストフード店、この状況で混まないはずがない。百円セールもやっているし。数十席は在るはずの座席は全て埋まり、空席を探してきょろきょろする少女が諦めたように階段へ向かう。トレーは持っていなかったからおそらく偵察だったのだろう。ご苦労様だ。
「はい、あーん」
 甘ったるい声が耳に付いた。振り返ると隣の席のカップルが食べさせ合っていた。しばらく観察したところ、彼氏の方はしなしなのポテトばかり口に入れられている。対する彼女はカリカリポテト。権力構造は彼女の方が上のようだ。
 視線を感じたので僕はそちらに注意を向ける。諒子さんが笑っていた。
「羨ましい? 何だったらしてみる?」
 僕はほほを紅潮させる。その僕の様子を見て諒子さんは目を細める。彼女は笑うと幼く見える。とてもかわいらしいのに、左目の下の泣きぼくろが彼女が大人の女性であることを主張するので、何だか奇妙だ。奇妙で、僕はそれを恐ろしいなとどこかで感じていた。
「……いいです。もう、ポテトもないですし……」
 遅ればせながら僕は返答した。諒子さんの目はまともに見られないので下を向く。気恥ずかしさもあるが、恐ろしさの方が勝っている気がする。彼女に囚われたら、比喩でなく食べられてしまいそうだ。頭からバリバリムシャムシャ。きっと骨も残してくれない。
 諒子さんはふぅんと無感動に答えてコーヒーを意味もなくかき混ぜだした。黒い液体が渦を巻く。
 僕は窓を見上げた。春先の柔らかな雨はまだ静かに降り続いている。辛うじて残っていた桜の花も、この雨で散ってしまうだろう。その代わりにと咲き誇る歩道に広がるカラフルな花。その一つが不意に歩道を外れた。車道に飛び出した臙脂の傘は次の瞬間宙に舞う。その臙脂に負けないくらいの赤が、黒い道路に広がって、もう一輪鮮やかな花を咲かす。
 その深紅の花の種は長い髪を散らしている。キューティクルのない茶色の髪。それにも白いカーディガンにも緋色のワンピースにも、赤が染みていく。僕はただ見る。そして悟る。ああアレは諒子さんの咲かせた花。赤の好きな彼女の咲かせる花はやっぱり赤かったけれど、僕はエナメルの深紅の方が色としては好みだ。
 思いきって僕はコーヒーを口に運ぶ彼女に聞いてみることにした。
「諒子さん、そのマニキュア、綺麗ですね。どこのメーカーのですか?」
 彼女は驚いたように目を見開くと、いやらしく笑って見せた。
「なあに、幸弥君ったら。いつの間に彼女なんて作ってたの? それともこういう趣味とかあるわけ?」
 だったらお姉さんコーディネートしてあげちゃうよと嬉しそうな諒子さん。僕は失敗だったなと、羞恥に煮えた頭で考える。ぼそぼそと、やっぱりいいですと返した。
「はい」
 諒子さんが唐突に鞄の中から何かを取りだした。見ると、有名な、僕でも知っているようなブランドの名前の入った小箱。とまどって諒子さんを見ると、彼女は開けろと仕草で示した。
 中には、彼女の一部と同じ色の、エナメルの瓶。
「あげるよ。私も気に入ってるんだ、その色。でもみんな毒々しいだのキモいだの。失礼しちゃうわ」
 肩をすくめて、ほほをふくらませる諒子さんはやっぱり魅力的だ。
 たどたどしく礼を述べると、諒子さんは片目を瞑って見せた。
「お代は出世払いで良いわよ」
 そのお代はどうにも払えそうにない。




 諒子さんは僕の叔母さんだ。僕の母の、一番下の妹に当たる。しかし叔母さんとは呼べない。呼ぶと怒られる。尋常じゃなく。
 まあ僕としても、こんなに若くて美人なひとを「おばさん」などと呼べるわけがないので異存はないわけだが。
 諒子さんは、かけおちなんてドラマみたいなことをした僕の父母の消息を、親戚内でただ一人知るひとだ。
 父母がそんなことをしたのが十六年前。そのときにはすでにお腹に僕がいた。
 それなりにいいとこの長女だった母の親戚には堕ろせと言われたそうだが、母は反対。勢い余って家まで飛び出してしまったという。何というか、思い切りの良いひとなのだ。
 そういう母の妹である諒子さんもご多分に漏れず、さばさばとした姉御肌の人物である。末っ子なのに。
 中学に入ったばっかりだった諒子さんは、母のかけおちの手伝いをしたそうだ。具体的には、軟禁状態だった母と父との連絡役である。軟禁というのも比喩ではなく、家から出ることを一切禁じられていたそうだ。四六時中監視の目があって、抜け出すのがそれはもう大変だったと母は豪快に笑いながら話していた。
 まあ、そんな冒険譚に特に意味はないので割愛しよう。そもそもよく覚えていない。
 要するに諒子さんというのは、僕の命の恩人と言っても差し支えないくらいのひとなのだ。




 まどろみから目覚めると、窓の向こうから柔らかに地面を打つ音が聞こえた。
 カーテンを開けると、妙に明るく雨雲が空を覆っている。
 夢見が悪かった上にこの天気。
 ついていない。今日は約束があるというのに。
 僕は相変わらず起動の遅い脳に悪態を吐きながら、ゆっくりと肩を鳴らした。




 ああこれ夢で見たな。
 そう思う瞬間が、たまにある。
 誰にだってあると思う。そういう些細な予知夢。
 例えば。
 廊下にいたクラスメイトがすれ違いざまジュースのプルトップをひねった。
 そして次の瞬間僕は気づく。
 あ、これ、夢であった。
 ……あるいはこれは、ただの既視感なのかもしれないけれど。
 僕は何となく、これは予知夢だと思うことにした。
 だって、その方がちょっと面白い。




 しとしとと、軽快なんだか陰鬱なんだか分からないリズムで春雨が降る。
 僕はただぼんやりと、あの日諒子さんが飛び出した車道を見つめていた。
 足下には花。真っ白な菊の花。
 缶ジュースに、日本酒の瓶らしき物まである。
 こんなもの、彼女が喜ぶはずがない。
 僕は下げていた紙袋から花束を取り出す。
 真っ赤な薔薇の花束。永遠に年を取らない彼女の年齢分。
 それだけ置いて、僕はそこから去った。
 なんとなく振り返ってみると、真っ白ななかにぽつんと、毒々しい色が収まっていた。




「ごめん幸弥君、待った?」
 その問いかけに僕は首を振る。横に。
 緋色のワンピースに白いカーディガンを羽織ったそのひとは、約束の時間から十分遅れてやってきた。
 そして僕の顔を見てにやりと笑うと、
「上出来! 三十分早く待っててもちゃんとそう言える君はいい男だぞ」
 と言って僕の頭を軽く小突いた。
 僕の顔は今熱い。慌てて彼女から視線を逸らした。
 諒子さんはこういうひとだ。
 わざわざ約束の三十分も前に来ておいて、僕がぼんやりしているのをにやにや眺めていたに違いない。
「さて、じゃどっか入ろうか」
 僕は機嫌良くはずむ赤い傘を追いかけながら、四十分前から目の端に捕らえていたその色のことを胸の中に仕舞っておいた。




 あの日、諒子さんはなぜ飛び出したのだろう。
 警察も理由が分からないようだった。
 当然僕にもわからない。




「さ、遅刻してきたお詫びにおごったげる。なんでも頼んで良いわよ〜」
 彼女に連れられるままいくつかの通りを抜け、気がついたらこんな洒落た店にたどり着いていた。
 ビルの地下一階にあたるこの店は、どうやら夜はバーになるらしい。
 案内された中二階の席から見下ろすと、カウンターとバーテンらしき店員。そしてその後ろにカラフルな瓶が揃った棚が見える。
 僕が適当に安くてそこそこ腹に溜まりそうなものを選ぶと、諒子さんは眉をちょっとしかめた。
「おごりだからって遠慮すること無いのよ? ってか育ち盛りがその程度で満足しちゃダメでしょ! 別に知らない仲ってわけでもないんだしどんどん頼みなさいな。遠慮のしすぎは失礼に当たるわよ? ……まあそうやって遠慮しちゃうところは君の良いところだけどね」
 ……頼んだ方が良いのか悪いのかはっきりして欲しい。
 僕が難しい顔をしたのに気づいたのか、諒子さんはしょうがないなと言いたそうに、肩をすくめると店員を捕まえてお互いのメニューにピザとデザートをプラスして注文した。
 店員が行ってしまった後、僕は諒子さんにそんなに食べられるのかと聞いた。
 諒子さんは鼻を鳴らして、
「よく考えたらここにいっぱい食べられるのがいるんだもん。食べたいの食べなきゃ損かなって思って」
 注文しなかった罰よ罰、手伝いなさいなんて言って胸を張った。




 時々僕は考える。
 あれはやっぱり予知夢なのか。
 それともただの既視感なのか。
 証明しようと夢日記を付けようと思ったこともある。
 すぐに挫折した。
 なぜなら夢の内容を覚えていなかったから。
 加えて、僕の寝起きの悪い頭では、「夢日記を書く」なんてこさえ思い出せなかったから。
 だからただ考えるしかない。
 あれは予知夢なのか。
 やはり既視感なのか。
 答えは出ない。




「なんか小腹空いて来ちゃったわねぇ……」
 ランチを食べてから一時間もしないうちに諒子さんがそんなことを言ってきた。
 さっきまで「食べ過ぎた……」とうーうーうなっていた人のセリフとは思えない。
 彼女曰く育ち盛りの僕でさえ、まだちょっと食べ物は見たくないというのに。
 それどころか食べてすぐ歩き回った所為で、僕の脇腹はしくしく痛む。
 諒子さんはどうしよっかなーなんて言いながらちらちら僕の方を見る。
 仕方なしに僕は、曖昧に相槌を打った。
「じゃ、あそこで」
 諒子さんが指さした店。そこから流れてくる独特の匂いに胸焼けを覚えながら、僕は程々に混雑した歩道をすり抜けていく諒子さんの赤い傘を必死で追いかけた。
 またいっぱい頼むのかな……と半ばうんざりしながら。
 喩えそうであっても、さっきの諒子さんの楽しそうな表情が可愛かったから許してしまいそうだけれども。




 予想に反して、諒子さんは飲み物とポテトだけを頼んだ。ポテトは僕と共有だ。
 本当に小腹が空いただけらしい。
 土曜日の午後の狭いファーストフード店は混み合っている。
 客の会話のさざ波の中を、回遊魚のように店員が回って注文の品を届けている。
「ポテトLサイズお待たせしましたー」
 きびきびと言うよりはふらふらと、回遊魚が僕たちのテーブルにポテトを置いて、番号札を回収して行った。
 諒子さんは嬉しそうだ。隅の方に残ったしなびた廃棄寸前のポテトを食べずに済んだからだろう。彼女はカリカリポテト派だ。僕もだけれど。
 ポテトというのは不思議な食べ物で、もう入らないなと思った僕の胃袋にもちゃんと収まってくれる。しかも一度食べ始めたら止まらない。惰性で次々に運んでしまう。
 僕も諒子さんも、なんとなく黙々とポテトを消化していった。




 ファーストフードというのは長居するのに便利だ。
 どんなに客がいても、注文したものが残っていれば滅多に追い出されることはない。
 そんなわけで、気がついたら二時間ほど居座ってしまった。その間僕らはたわいない話に花を咲かせた。その証拠に、僕のポケットには僕に似つかわしくないエナメルの小箱が収まっている。
 雨は止まない。春雨は長く長く、途切れることを知らない。
 僕の前を歩いていた臙脂色が、不意に止まった。
 驚いて見ると、諒子さんが驚愕の表情で車道を見ている。
「     ――!」
 次の瞬間、諒子さんは飛び出した。
 赤い傘が風を受けてふわっと舞い上がり、僕の視界から彼女の姿が一瞬消える。
 何が起こったのか。僕にはわからない。
 けれど次の瞬間まぶたの裏に蘇る。赤い花が。まざまざと。
「うああっ!」
 よくわからない声を上げて、僕も車道に飛び出した。
 諒子さん諒子さん、りょうこさん!
 雨粒が目に入った。
 振り払う。
 りょうこさん!
 緋色のワンピースが翻る。
 伸ばした手は、空を切った。
「ぇ……」
 僕はぽかんとして、突っ立った。
「     ――!」
 背後から衝撃。
 呆然としたまま僕は転がる。
 耳障りな甲高い音。
 なにか嫌な破壊音。
 ゴムの焼ける臭い。
 なにか重い衝撃音。
 すべてが終わって、悲鳴が聞こえた。
 振り返る力もない。
 ただわかった。
 助けるはずのひとが、そこで赤い花を咲かせていることが。




 ……ああ、これ
 ゆめであったな




「ちょっと手出して」
 言われるまま左手を差し出すと、突然がっちりと押さえつけられた。
 諒子さんは楽しそうに鼻歌を歌いながら、僕に渡そうとした小箱の蓋を開けて、中身を器用に片手で取り出すと、そのマニキュアの瓶の蓋まで片手で開けてしまった。
「ちょ……っと、諒子さん!」
「さわがないさわがない」
 諒子さんは小瓶を置くと、瓶の蓋を持ち上げた。先に棒のようなものが付いている。刷毛だろうか。
 欲しがったくせに、僕はマニキュアがどういう構造をしているのかなんて知らなかった。
 シンナーとかラッカーとか、有機溶剤らしき刺激臭が鼻を衝く。
「動かないでね」
 左手の薬指に、冷ややかな液体が塗られていく。
 僕は薬指の先が赤に浸食されていくのをただ眺める。
「はい、おしまい」
 告げて、諒子さんは手を放した。
 僕の小指には、一片の赤が残される。
「ホントはベースコートとか、トップコートとかあった方が良いけど、ま、すぐ落とすでしょうし」
 そう言って諒子さんは、エナメルを落とすウェットティッシュのようなものを差し出した。
「どう? やっぱりちょっと重いかな、その色?」
 僕はじっくりと小指を見た。深い赤。血の色よりもっと深い。
「そうですね……僕には似合いそうもないです」
 正直な感想を述べると、諒子さんは軽く目を見張った後、子どもみたいに笑った。




 あの日、僕はなぜ飛び出したのだろう。
 警察も理由が分からないようだった。
 当然僕にもわからない。
 だからただ考えるしかない。
 あれは予知夢なのか。
 やはり既視感なのか。
 答えは出ない。




▲戻る