呼吸すらままならなくなるほどの静寂さは、一種荘厳とも言えるのかもしれない。
みっちりと箱の中に詰め込まれた肉のひとかけらである男は、そう考えて、苦笑した。
目の前のOL風の若い女が苛つきを隠そうともせず彼を睨む。
どうも先ほどから痴漢のように思われているらしい。それはないだろう、と彼は途方に暮れる。
確かに自分はオッサンだ。見目の良い外見をしているわけでもない。
痴漢に遭うというのがどれだけ女性にとって屈辱的且つ恐ろしい出来事であるのか男である彼には想像しかできないが、不快な事象であり、許せないことなのだろうとは思う。
だがだからといって、電車に乗る男が全て痴漢というわけでもないのだ。
朝のラッシュの満員電車で、頼みの綱のつり革を掴めなかった彼は、OLの視線に対してただ必死に胸元の鞄を握りしめることで潔白を証明しようと試みる。
快速電車はぐらぐらと乱暴に揺れ、それに合わせて中身もシェイクされる。
せめてあまり密着しないようにとは思うのだが、後ろからの圧迫に負けてしまい、余計に睨まれる。
元々気の弱い彼は、ただただ恐縮するしかない。
鞄の持ち手は、じっとりと汗ばんで湿っていた。
『まもなく赤羽、赤羽に到着致します……』
車掌のアナウンスが入る。彼は内心安堵した。これで少しは移動ができる。
ぐらりと揺れて連結部を乗り越え、扉が開く。
女性はここで降りるようだった。出口に背を向けていた彼は、場所を譲るように動く。
女性は黙って通り過ぎる。
去り際にヒールで脚を踏みつけられた。
呆然とする彼を最後まで睨み付けながら、女性は流されていく。
入れ替わりに入ってきた波に流されるまま、逆側の扉に押しつけられた。
骨がきしみを立てそうなほどぎゅうぎゅうに詰め込まれる。
まるで女房が冬物をケースにしまうような乱暴さだ。
彼は自分の息で曇るガラスを鬱陶しく思った。跳ね返る息が少々臭う。
押しつけられたときに付着したのか、額から生え際に当たる部分のガラスが油分を含んでいた。
……こんなものだから、嫌われるのだろうか。
中学に上がった娘のことを想う。
具体的に何か言われるわけではない。ただ『なんで居るの?』という無言の視線だけで、彼には十分すぎる脅威であり、恐怖だった。
あの子が小さい頃はそうでもなかった。いつ頃からなのだろう。家の居心地が悪くなったのは。
帰ると玄関で嬉しそうに出迎えて、抱きついてきた子は、もう霞のように薄れ、残ったのは目があっても自分を無視する娘。
もう何年、『お帰りなさい』を聞いていないだろう。
いや、そもそも娘の声を聞いたのは、いつだったかとまで思考が及んで、彼は愕然とした。
……どうして自分は、招かれざる人間となってしまったのだろう。自分の家だというのに。
建てたのもローンを払っているのも、自分だというのに。
自分だって、家族であるはずなのに。
そんな、もはや彼にとってはとりとめのない事象となってしまった思考。それに囚われていた彼の目の前を、それはふっとかすめた。
綿毛のような……それにしては彩度のある、いろ。
唐突に彼は、それが見たいと思った。
「おじさん、おじさん」
不意に欠けられた声に彼は目を覚ます。
いつの間に寝ていたのだろうか。
彼は身を預けていた手すりから起こすと、ぼんやりと辺りを見回す。
何の変哲もない列車内だった。空席が目立つ、と言うより、乗客が居ない。
日差しは柔らかく差し込み、適度に室内を暖めている。
臙脂色の座席カバーは少し古びて、所々はげてしまっているが、座り心地は好い。
車両の揺れは穏やかで、たたん、たたんと一定のリズムを刻んでいる。
これでは寝てしまうのも仕方がないかと彼は納得した。
「おじさん、ねえ、何か甘いもの持ってない?」
先ほどと同じ少年の声がする。
見回すまでもなく、隣にいがぐり頭にタンクトップ、短パンのこれまた古風な風体の少年が座っていた。
素足に直に履いた汚れたスニーカーをぶらぶらと揺らしている。
「甘いもの……」
背広のポケットを漁る。スラックスのポケットも漁るが、めぼしいものはなさそうだ。
「残念だけど……」
そう呟いて、しかし、胸のあたりに違和感があることに気が付く。
背広の内ポケットを探ると、溶けかかった小さなチョコレートが顔を出した。
そう特別なものではない。キャンディーのように端を捻っただけの包装。何グラム百円と言ったような、所謂お徳用のチョコレート。
だと言うのに。
「あ……」
彼には特別なものだった。
それは、それは……。
「あ! いいもの持ってるじゃん。いただきます!」
脇の少年がひょいっとチョコレートを摘む。
摘んでそのまま、車両の奥へと進んでしまう。
「おじさん、ありがとう!」
「ま……待て、それは……」
彼の声など聞こえていないのか、少年は嬉しそうに扉を抜けた。
「待ってくれ、それは、駄目だ。駄目なんだ」
年甲斐もなく慌てて、彼は少年を追いかけた。
必死だった。
脳裏をかすめた、それにまつわる思い出が、それがどういう意味を持っているのか、突きつけてくる。
娘が十を少し越えた頃。
その日はバレンタインデーだったが、まだ若かった女房も、娘も、彼にチョコレートを与えてはくれなかった。
ショックだった。
少なくとも女房は、毎年くれていたというのに。
それとも夫婦になるということは、そう言う行事を一つずつなくして毎日を扁平な日常に替えていくということなのかと、彼は悩んだ。
彼も若かったのだ。
だが自分からチョコをねだるというのも、どうだろう。
そんな彼の煩悶を見て取ったのか、彼の妻と娘は顔を見合わせて笑う。
何が可笑しいんだと問いかけた彼に向かって、彼女らはいたずらっぽく瞳をきらきらさせて、
『背広の、内ポケット』
それだけ告げると、やっぱりお父さんは鈍感だねぇなどと言い合って笑っている。
検めてみると、そこには、ハート型の、赤とピンクの銀紙にくるまれたチョコレートが、二つ……。
「待っ……!」
連結部の扉を開いたところで、彼は止まった。
少年の姿は影も形もない。
そんな馬鹿な。いくら何でも、相手が活発そうな子どもで、自分が鈍くさいオッサンだとはいえ、消えるのが早すぎる。
呆として突っ立っていると、自分に突き刺さる視線を感じた。
学生服に、学生帽を被った、いかにも学生然とした少年が、彼を睨んでいた。
その視線に彼は戸惑い、いくら何でも大人げなかったろうかと恥じた。
その学生の肩に寄りかかって、先ほどの少年くらいの年の女の子がすぅすぅと寝息を立てていた。
おかっぱの黒い髪が、呼吸に合わせてさらさらと揺れる。
彼は少年に軽く頭を下げた。少年は視線を和らげると、同じように頭を傾けた。
妹らしい少女を起こさないように、微かに。
あまりうるさくしないよう、気を配りながら彼は少年に近づいた。
ささやくように、問いかける。
「すみません、今ここを、いがぐり頭の子どもが通りませんでしたか?」
少年は不思議そうに彼を見ると、何か得心がいったかのように、更に奥の車両を指さした。
「ありがとう。お騒がせして申し訳ない」
そう告げて、彼はそちらへ向かうことにした。
扉を抜ける前に振り返ると、少女はずり落ちて、少年の腿の上に頭を載せていた。
少年は微笑みながら、優しく髪を梳いてやった。
彼は思い出す。
彼には妹が居た。
体が弱く、幼い頃に病で死んでしまった妹だ。
自分はその子の為に強くなろうと思った。
病気がちなその子の支えになれる、頼れる兄になろうと思った。
あの子をいじめる子を、追い返したことも少なくない。
けれど、あの子は喜ばなかった。
そんなことをして欲しいわけじゃない、と彼女は言った。
優しくしてくれるのは、家の中だけで良いの。じゃないと、わたし、強くなれない。
お前は強くなんてならなくて良い、体が弱いんだから、と反論すると、怒った。
今思えば、自分は自分より弱くて、しかも守らなければならないものができたことに、浮かれていたのかもしれない。
そんな兄のエゴを、聡明な妹は見抜いていたのだろう。
だからああ言ったのだと、今なら分かる。
あの子には、生きていて欲しかった。
駄目な兄貴を叱ってくれる、必要なときには頼ってくれる、できた子だった。
もしあの子が生きていれば、家族がこうなる前に、何か良い打開策を……具体的には、自分を叱って……くれたかもしれない。
彼は苦笑する。
こんな歳になってまで妹に頼ろうとするなんて、なんて駄目な兄貴だ、と。
次の車両にも、あの少年の影はなかった。
ただ、座席の上に妙な物体が鎮座していた。
14インチほどの、無骨なテレビデオ。
その黒い外装の上に、大きめの木の写真立てが伏せてあった。
それを起こしてみると、結婚写真が目に飛び込んでくる。
幸せそうなカップルの写真。
燕尾服の男が、純白のウエディングドレスの女と腕を組んでいる。
お互いに真っ赤な顔をして、はにかみながら見つめ合っている。
この写真を撮った人物は、なかなか良い腕をしているようだ。
こんなにも口元がゆるむ。
それとも、このカップル自体に、ほほえましい気分にさせる力があるのかもしれない。
写真を元のように伏せて、テレビデオの電源を入れる。
おそらくはこの結婚式の様子だろうと、ある種の期待に胸を躍らせながら。
『あぁ……ア』
しかし飛び込んできたのは、予想だにしない映像だった。
停止した思考の中に、女のあられもない姿と、濡れた声が反響する。
「な、何だ、何で」
慌てて停止ボタンを押すも、反応がない。
「と、止まれ、止まってくれ」
焦りと羞恥で汗がどっとあふれる。ボタンが押せない。反応しない。
ビデオは回りっぱなしで、どんどん先の内容へと進んでいく。
指が震える。手汗でボタンが滑る。四角いボタン。ああ何で最近のボタンはこう薄いんだ。これじゃ押せたかどうか分からないじゃないか。指が滑る、滑って、滑る、すべる。
不意に、ぐらりと列車が歪んだ。
正確には、カーブにさしかかったのか、大きく揺れた。その揺れがあまりに大きくて、彼にはまるで歪んだように感じられたのだ。
彼はしりもちをついた。同じように、無骨な機械も揺れる。
元々安定性が悪いのか、ぐらりと大きく傾いで、彼の脇に横向きに倒れた。
『ァ……ぁアAh……あa』
声がノイズ混じりに曖昧になる。映像にも砂が走って何が何だか分からなくなった。
壊れたらしい。
彼は額の汗を拭った。
これなら、内容も分からないだろう。おそらく。
彼は立ち上がると逃げるようにその場を後にした。
しかし、と彼は思う。
先ほどのAV女優、誰かに似ていた気がする。
例えば、そう。
女房の、若い頃なんかに……。
「あああぁあぁぁああ!」
突然の叫びに、先ほどのビデオが復活したのかと、彼は身を硬直させた。
が、それは違ったようだ。
声は前方から聞こえている。
見ると、若い母親らしい女性が、赤ん坊をあやしているところだった。
「よーしよし。どうしたの? 怖い夢でも見た?」
優しく話しかけながら、女性はゆらゆらと腕を揺する。
と同時に小さな声で、何かを口ずさみ始める。
子守歌だと気づく頃には、ぐずっていた赤ん坊は、いつの間にか落ち着いて、やがて眠りに落ちていった。
女性は彼に気づくと、申し訳なさそうに頭を下げた。
彼は頭を振って、ほほえんだ。
女性の邪魔にならないよう、遠くに座る。
少し疲れた。
窓の外を見ると、水面が陽光を反射して、きらきらと輝いていた。
先ほどの揺れは、橋に差し掛かった為のものだったらしい。
まるで海のように広い。だが一定の流れからして、どうやら河であるらしい。
流れは穏やかで、二、三艘の船が浮かんでいる。鍔の広い麦わら帽子を被った船頭が、ゆらりゆらりと慎重且つ迅速でありながらも優雅に櫂を漕いでいる。
ポーッと汽笛が鳴った。
彼はその音に驚く。それではこの電車は蒸気機関車であるというのか。
言われてみれば、このどこか懐かしいような内装も、嵌め殺しの窓も、臙脂の座席も、汽車のようではあるが。
彼が覗いていたのとは逆の窓の外を、真っ白な煙が流れていく。
美しかった。本来ならばもっと黒ずんでいるはずの煙。なのに、まるで濃霧のような白さ。不思議で、しかし、それでも美しいと感じた。
もう一度視線を窓の外、水面へと向けると、船頭達が帽子を脱いで胸元に当て、こちらに礼をしていた。
「お客さん、お客さん」
声が聞こえた。
瞑っていた目を薄く開ける。
目の前には、黒い薄手のコートを着込んだ男。
白い手袋を嵌めた手で、ゆさゆさと揺り起こされる。
「お客さん、もうすぐ終点ですよ」
見ると、赤ん坊を抱いた女性は居なくなっていた。車内には彼と車掌の二人のみ。
たたん、と列車がリズムを刻む。
「ああ……ありがとうございます」
曖昧な調子で応えて、目元をこする。子どものような仕草だな、と笑った。
「すみませんねぇ。寝かしておこうかとも思ったんですが……」
何分仕事ですから、と申し訳なさそうに告げながら、初老の車掌は懐を探る。
鋏を取り出すと、では失礼してと彼の右手を開かせる。
いつの間に握っていたのか、薄紅色の切符がそこにはあった。
かちり。切符の端に穴が空く。
「桜をね」
「はい」
「桜を見たいんだけど」
「桜でございますか」
「うん……。白っぽい、でもちゃんとピンク色の桜」
車掌はほほえむ。
おどけたように帽子を脱ぐと、少し寂しくなった乳白色の頭髪が見えた。
「では終点までの道のりをお楽しみになさって下さい。どちらの窓からでもそれは見事な桜が見られますよ」
「見事ですか?」
「ええ。きれいですよ。とても」
「それは、楽しみです」
「終点の駅にも、それはそれは大きな桜がございますが……少々、お客様の言をお借りすれば……ピンクっぽいかも知れませんから」
それでは良い旅を、そう告げて会釈すると、車掌は次の車両へと向かった。
「そうそう、お客さん」
扉に手をかけながら、車掌はいたずらっぽく笑う。
背広の、内ポケット、ですよ。
そうして車掌は奥に消えた。
彼は窓の外を眺めながら、内ポケットを探る。
水面は依然きらきらと輝き、鉄橋の赤とその上を疾走する黒を反射する。
現れた四角いキャンディーのようなチョコレートを口に入れる。
あっという間にとけたそれは、ひどく甘く、優しかった。