彼女について


 僕は彼女に謝らなければならないのだろうか

 と問いかけると、タケヒコは何とも言いようがない、……強いて言うなら奇妙なものを見る目つきで僕を見た。
 のにすぐに目を逸らして、もごもごと口を動かした後、間を繋ごうとして熱いコーヒーをあおってむせた。
 阿呆だ。僕は冷静に分析する。アホでもまぬけでも馬鹿でもバカでもなく、阿呆だ。たいした違いではないが。まあ気分の問題と言うことで。
 お冷やに火傷した舌を突っ込んで(見苦しい)タケヒコは上目遣いに口を開く。
 お前はどう思ってんよ?
「ほあぇあほぅほおってんよ?」
 ――阿呆め。阿呆のくせに狡い奴だ。

 僕はため息をついて視線を逸らした。平日のファミレスは近所の奥様グループやら、教科書をぶちまけている浪人生やら、自主休憩中のサラリーマンのオッサンやらがいるくらいで、閑散としている上、そう言った輩は得てして注文などと言うものは最初の一回で全て済ましちまっているので、ウエイトレスのお姉さん、あるいはオバサンも暇そうだ。あ、あくびなんてしていやがる。ご意見コーナーに告げ口でもしてやろうか。しかし件のお姉さんの脚のラインがまれに見る美しさなので勘弁してやることにした。のどちんこまで見えそうな大あくびだったんだけど。僕は何を考えているんだか。


 ええと、そうだ、うん、彼女。彼女のことだ。

 彼女はいわゆる『クラスのかわいい女の子』だ。学校のマドンナなんて存在にはなかなか出会えないが、そこそこに可愛いクラスの花くらいならどの学校にもいるだろう。まあ言ってしまえばその程度と言うことなのだろうが、思春期男子にはそれでも十分に魅力的なのである。
 身長は平均よりやや低め。肌は白く、目は大きめ。笑うとえくぼができる。割と天然気味。男女ともに好感を持たれているが、リーダーシップを取るのはあまり得意ではない。しかしなし崩し的に現在我らが三年二組のHR委員。有能。勉強は上の中。運動能力は中の下。チャームポイントは先に挙げたえくぼとツインテール。完璧とまではいかないけれど、人間多少の欠点がある方が親しみやすくて良い印象を持つのだから、そう言う意味では彼女は完璧パーフェクト。一部によるとちょっとロリっぽいのがまた良いらしい。
 で、そんなクラスのお花ちゃんが、こともあろうにこの僕に告白してきたのだ。驚きである。


 はっきり言おう。僕は彼女とは真逆の人間である。

 今だって本来ならば午後一の授業中である。確か古典だったか。担当は担任の催眠術師須藤。クラスメイト達は今頃眠気と戦っているのだろう。善戦していると良いのだが。睡魔の方が。
 しかしすでに絶滅してニュータイプに取って代わられている言語なんて勉強したところで何になると言うのか。学校教育などと言うものは不毛だ。以前数学教師に複素数なんて勉強して日常生活に役に立つのかと問いただしてみたところ泣かれてしまったことがある。まだ新任の若い女の先生だった。さすがに悪いとは思っていたので、うざい須藤のジジイの粘着質なお小言も黙って聞いて、その先生には謝った。男だったら一発殴ってやるところだったが。僕は女性には優しくしたいのである。女尊男卑で何が悪い。
 思考がずれたが、逆に良いヒントに繋がったので続けよう。そうだった。僕はフェミニストだった。それではやはり彼女には謝りに行くのが筋であろう。と言うかあんなやりとりははっきり言って最悪だ。とてもそうですと胸を張れない。むしろ非難を受けてしかるべきだ。


 告白されたのはつい昨日のことである。

 久しぶりに丸一日学校で過ごした僕は、須藤のジジイの呼び出しを無視して教室で帰り支度をしていた。と言っても、持って帰るものなど薄っぺらな鞄のみなのだが。それをひっつかむと、僕は教室の隅に突っ立ってクラスメイト達が机を引きずる姿を何とはなしに眺めてみた。教室の半分のスペースを箒で掃いて、ちりとりでゴミを拾って、ゴミ袋をまとめて、またずりずりと机を所定の位置に引っ張っていくエキストラな彼と彼女達。須藤はその監督もせずにさっさと準備室へ引っ込んでしまった。全く、奴の適当さ加減が如実に表れている行動だ。大体、本当に僕のことを考えているのなら教室にいる時点で僕を準備室まで引っ張っていけば良いのだ。それをしない時点で奴は何も考えていない。ただマニュアル通りの行動。と言うかマニュアルよりも劣ってないかこれ。まあ良いけど。どっちにしろ逃げるから。中年男の愚痴混じりのお小言なんて聞いてたら耳が腐る。……ああもうまたずれた。今度のずれは蛇足だ。どうでも良い。それよりも昨日のことだ昨日のこと。

 そうやって教室が生徒達の素晴らしき自主性により片づけられていくのを眺めているのに飽きた僕は、そのままくるりと方向転換をして教室を出た。放課後のざわついた雰囲気を味わいながらだらだらと昇降口に向かっていると、前からクラスメイトの女子の集団がやってくるのが見えた。例の彼女がその輪の中にいたからそれと分かったのであって、正直僕は未だに半数以上のクラスメイトの顔を知らない。だって必要ないし。興味もないし。ぶっちゃけ重要なのは同学年か否か、男か女かだけじゃないか。そんなの、日本の平均的な学校なら一目で分かるし。いやあもう制服とか学年用上履きとかのシステムは最高だよホント。などと考えていたらいきなり腕を引かれた。驚き半分呆れ半分無礼な態度にちょっとお怒りな態度で振り返ってみたらその集団の中心にいた子(例の子じゃない)が僕の腕を引き留めてた。そして一言。
「先生からの呼び出しはどうしたのよ」
 僕は苦笑した。そんなのサボタージュなのは同じクラスにいるなら周知の事実なのだ。ジジイの呼び出しを知っているなら同じクラスの一員なのだから僕の態度も知っていて当然。全くもって意味のない問いかけだが、フェミニストを信条としている僕は丁寧かつ慇懃にそのようなことを返答した。

 彼女はうなずく。そしてやけに真剣な目で僕を見つめた。
「じゃあちょっと付き合ってよ」
 有無を言わせぬってこう言うのを言うのかとあっけにとられながら僕は引きずられるように彼女たちに同行させられた。ずりずり。デジャ・ビュ。ふと脳裏についさっき見た教室の清掃の光景が蘇って、僕はついつい吹き出した。彼女たちは不気味そうに僕をちらりと一瞥しただけだった。僕としては少し残念だったが、大人しく彼女たちの後に従った。

 校舎から出て、上履きでも通れるようにと配慮された打ちっ放しのコンクリートの上を歩く。その先には、使用が禁止された焼却炉が目の前に所在なく立っている。別に誰かが誤って転んで焼死したわけではなく、単純に環境への影響どうのこうのとか言う理由で取っ手に鎖を巻き付けられてしまった哀れな焼却炉君の前で、彼女は止まった。
「ここなら、滅多に人来ないし」
 そう言って僕の手を放す。やっと取り戻した僕の手首には彼女の手の形が少し赤くなって残っていた。
「さ、トモちゃん」
「……ぅん」
 強引な女の子は、お花の彼女を促した。僕はこっそりと左手首をさする。痛みはないが、筋肉が固まってしまっていた。
「じゃ、私たちは行くから、頑張って」
「うん。ありがと……」
 良く分からない会話を交わして、僕を連れてきた子と一緒についてきた数人の子は来た道を戻っていった。とりあえずリンチではないらしいとこっそり安心する。去り際に何か目配せをされた気がするが、僕にはその意味は残念ながら酌み取れなかった。

 そして僕は、顔を真っ赤にした彼女から、ずっと前から好きでしたなんて恋愛漫画にありがちな科白を吐かれてしまい、あまりの驚きに硬直してしまった僕は、それでもなんとか何かを言わなくてはと混乱した頭で口を開いた。
 真っ白な僕の頭が無意識に紡ぎ出した言葉は、最低最悪。

 ――何かの、冗談?

 顔色を赤から蒼白に変えた彼女は、僕を突き飛ばすと、泣きながら駆けて行った。
 僕はぎこちなく立ち上がると、突き飛ばされたときに汚れた尻を払い、そのまま家へ帰った。上履きのままだったと言うのに気づいたのは、玄関を潜ってからだった。

 全く、思い返せば思い返すほど僕が悪いじゃないか。謝るのは当たり前である。何だって謝らなきゃいけないのかなどと考えたのか。違う学校で真面目に生活してるタケヒコまで呼んで。タケヒコを阿呆などとは言えない。僕の方が正真正銘阿呆なのだから。
「で? どうすんのさ」
 お冷やをガバガバ飲みながら、タケヒコが僕を見る。
 僕は横目でタケヒコを見、目を閉じる。
「謝るよ。それからきちんと誠意を持ってお断りする」
 暗闇の中で僕は思う。さて今頃、こいつは阿呆らしく満面の笑みでも浮かべているのだろう。予想通りにくつくつとのどの奥で笑う声がする。僕は目を開けて睨んで見せた。タケヒコがごめんごめんと手を合わせている。笑いながら。全くもって気に入らない。
 ふいに、タケヒコは少しだけ表情を改めた。微笑み。喩えようもなく愛しみに満ちた。
「優しいな、お前は」
「……。まあこれでも一応フェミニストを気取ってるんだ。今回は不意討ちだったから失敗したけど」
 僕は肩をすくめてみせる。タケヒコはただ苦笑した。
「本当のフェミニストなら『失敗』とかはないんじゃないのか?」
 痛いところを突いてくる。阿呆のくせに。ああいや、阿呆は僕だったっけ。タケヒコはにやついている。少し悔しい。悔しいので目を逸らしてやった。笑い声はシャットアウト。昔から僕はこいつに負けてばかりだ。年の差なんてたったの二つしか違わないのに。たった二年、胎から出たのが早かっただけなのに。
 僕は冷め切ったコーヒーに手を伸ばす。
「受けてやれば良いじゃないか、申し出」
 折角伸ばした手が空中で静止する。数秒の沈黙。再起動時間にしては早いほうだろう。
 僕は。
 そのままカップを口元まで引き寄せ、皮肉げな笑みを浮かべた。
「残念だけどね、僕はフェミニストだけどレズじゃないんだ」




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